注:2013年3月10日記 改無)
響きあう世界、これまでは実装することが難しかった世界。
それを情報技術が可能にする、まさにSFのような世界。
世界を変える、それを実装する。
それがこの「なめらかな社会とその敵」で書かれた世界では無いだろうか。
たとえば表紙帯に書かれていたジョンレノンの歌は確かに世界中に響き渡ったが、それがどれほどのものかイメージでしか語られることはなかった。もちろん絶大なインパクトであったが、それが「なめらかな社会とその敵」で書かれた世界が実装されれば、もっと身近なもので可視化出来る。それがその参加者であるという当事者意識を覚醒させるだろう。
たまたま僕がこの世界に会ったのは、ある人のツイートがきっかけで、ソーシャルメディアウィークの基調講演を聞かせていただき、興味をもってこの本を買ったことだった。
この世界は言ってみれば映画を見ているようであった。論文というよりも作品を見ているようだった。なので、あえてこの本を読んでと言うよりも、この作品の感想という形で下記を記したい。
僕は学生時代、ある創造性の研究者の言葉「創造とは無から有をつくることではない。関係がないとみなが思っていた物事を新しく結びつけることによって、新しい価値を生み出すことである。」という言葉に感銘を受けて、卒論を書いた。これまでの人生を総括するような言葉で、それを経営学に置き換えて書いた。
その時の文章はあくまで経営哲学的なもので、実装の仕方については全く書かれておらず、10年後、あれから社会人になってインターネットに携わって10年経って、この本を手にとったことは何か必然的なものを感じざるを得なかった。
僕が本文中1番印象に残った言葉は実はあとがきにある言葉で
「そもそも自分が書いているようで、ときどき自分が書いているような気がしないのである。PICSYやDivicracyのモデルを証明している時に、これは自分が発明した概念なのか、世界にそこにある概念を発見しているだけなのか、ときどき分からなくなって混乱したことがある。きっと上記の方々や読者を含む世界のあらゆる存在が、私というインターフェイスを通して本書を描き上げたのではなかろうか。」
この一言が文章の全てを示しているのではないかと感じた。
自分は1つしか無い(個人=individual)、または自分一人で成し遂げられる(0から1を創造できる)という概念は壁を造り、膜を作り、世界が広がることを拒む。
世界、それを資源と思えるか、異物(敵、膜、壁)と思うのか?
その異物という考えを捨て、ゆるやかになめらかにつながるということが出来ればそれだけ可能性が広がるということでないだろうか。
そしてそれはとても気持ちのよい世界ではないだろうか。「僕がここで見た空を君もどこかで見ているかもしれない。」そんなただ流れていく空や海をぼっと見ているだけで感じる気持ちのよい世界、感覚的に何か気持よく感じる世界、それを感じることが出来た。
そのような概念を実際に落とし込んだものがたとえば「PICSY」というシステムで、ここに出てくる「投資」という考え方は世界にあるあらゆるもの、行動が資源であるということを考えさせられる。そのように考えた場合に広がる可能性、それによって広がるこれまで見たことのない世界、ワクワクしてくるはずである。
「PICSY」とは価値が伝播する貨幣のことで、本文中の医者の例はすごくわかりやすく、これまでであれば薬を売ることが第一で患者のことを考えなかった世界から、その患者の未来を第一に考える世界へと変貌する。その場限りの自分の利益からもっと先を見た、お互いの事を考えるシステムが出来上がる。
これは直接的には関係ないかもしれないけど、先日ブックオフで買った本にレシートが入っていた。京都烏丸で5年くらい前に買われたそのレシートを見て、その距離感や時間の感覚を感じることが出来て何か嬉しかった。流れというかつながりというかそんな感覚をすごく感じた。たぶんそんな感覚はみなが感じたことがあるであろうと思う。
そのような感覚を味わうことのできるシステムだと思う。なぜそんなことを言うかというと、もちろんこのPICSYから受けられる仕組み上の利益もあるが、何よりそのつながる、伝播するという感覚がこれまでのソーシャルメディアとはまた違った形で気持ち良く感じることが出来るのではないかと考えるからだ。
昨年香川選手がマンチェスターユナイテッドへ移籍したが、その移籍金は小学生の時のチームまで還元されたというニュースがあった。このシステムはPICSYを意識したものかは分からないが、実際にそれによって各世代のチームの全ての行動が未来につながっていることを体感できるのではないかと考える。そしてこういう例は何より素晴らしいし、とても気持ちの良いものだ。このようなことがあらゆる場面で実装されていけば、投資という言葉が示すPICSYを用いた社会が実現出来るのでは無いかと考える。
またその気持ちのよい世界を実装するための手段が本文中の「人間の矛盾を許容してしまおう」ということである。この概念を生かしたものが「分人民主主義」「構成的契約社会論」ということであるが、この文章から感じたことはなめらかな社会を実装するためには、あらゆるモノに対して歩み寄ることが必要ということである。この歩み寄ることが社会が歩むことにつながる。どちらも「歩む」という言葉なのがなにか面白い。
そのために重ねて引用すると、本文中ではどのような世界観を引き起こすべきか?という命題に対して「2つの想像力」を示している。第一に、他社の立場に立つこと、あるいは他社を自分の身体の延長として感じることである。第二に、確かなものなど何もないという感覚である。
これを「うつろいの感覚」という言葉で表していて、このうつろいとは「移ろい」となるのだが、うつるとは感染るであるし、遷るである。つまり1つだけでは実現できない世界。つまり点と点、2つの点が必要であるということである。それを行き来すれば「矛盾」と写るかもしれないが、それは必然である。なぜならば、よく考えて見れば、昨日の自分と今日の自分では違う人物だ。その昨日見たもの感じたもの話したこと、その影響で今日の自分がある、だから矛盾だってする。
(※この点の話は基調講演の時に書いた文章で更に書いてます。
http://ullcy.com/?p=95)
だからこの作品はもちろん文章ではあるけど、リズムのようなものではないだろうか。このリズムの元にメロディーが生み出されている(各論「PICSY」「分人民主主義」「構成的契約社会論」))。このリズムとメロディーを受けて、誰か別の人間がメロディーを作り出す、言ってみれば即興のセッションのようで、皆が皆の影響を受けて曲を奏で出す。協奏の世界。
そしてそのメロディーのきっかけは世の中のあらゆるものだ。たとえばそれは構成的契約社会の章に出てくる「たとえば胃にセンサーをつけて投票させるということも可能だ」これだって、今まで考えたこともないようなことで、あらゆるものを総動員する必要があるということだ。
だから、結局、何にでも可能性をもたせることが可能で、その可能性の分だけ、未来がひらかれるかも知れない。これまで関係ないと思っていたものが世界を切り拓くかもしれない。
「自由とは、当たえられた選択肢の中から選択することが可能であることでは決してなく、複雑なまま生きることが可能であることをいう。」その複雑な状況を楽しめるか、それがカギとなるし、そういう社会を実装していき、色々な課題を見つけ、バージョンアップしていく。それが僕らの使命かもしれない。
それをインターネットでやる意味、それは「情報技術という新しいアーキテクチャの登場によって、ルールは書き換え可能なのである。」見たこと無い世界、インターネットが起こす確変。動的な世界、何が起こるかわからない世界。そのバイブを感じるのは生である必要があるし、それはすなわち自分も当事者でなければいけないということである。そしてそれを可視化出来るということが何よりもシステムたる所以なのではないだろうか。なのでこの作品で提示されるシステムはそれを感じさせるためのものないだろうかと考えることが出来た。
その上で、この本を多くの人に読んで欲しい。リズムと書いたのはそのリズムを聞いて読んだ人がどのようなメロディーを奏でるのか、そのメロディーを聞いた人がどんな違うメロディーを鳴らすのか、そして全体として響きあうのか、それを当事者として実感して欲しいからだ。
最後に全然関係無いのだがもし伊藤計劃が生きていたら、この世界を小説にして欲しい。インターネットを知った彼が描くとてつもない世界、エネルギー。あくまでこの論文として書かれた文章がストーリーに変わってもしもっと人々の身体に入っていったら、そして多くの人が当事者としてそれを感じることが出来たなら、それは素晴らしい、気持ちのよい世界を実装することになるのではないだろうか。