貧困と捉えるその頭が貧困だ

今日もテレビでやっていた「貧困問題」。

解決のために頑張っている人、いろいろ意見を言う人、僕は様々なやり方、見方で解決に向かえばいいと思うし、お互いのいいところをうまく協働しつつと言うことが大事であるし、今度の起こす学校でもその視点をちゃんと入れようと考えている。でもそんなことよりも今回すごく気になったのは、この「学力が高い(正答率が高い)」と言う概念。

参照:お茶の水女子大学委託研究・補完調査について

それはきっと高い点数を取ると言うことなんだろうけど、その基準で物事を考えるからおかしくなるのではないだろうか。それよりも高い点数を取るためにかけたお金、と現在それが役立っているのか、その因果関係を調べる方がいいのではないだろうか。

高い点数を取るためにお金が必要。
その発想自体が貧困だと思う。

小さい頃、うちなんてあまりお金がなかったから本なんて買ってくれなかったけど、その代わり、町の本屋、図書館でたくさん、本に触れた。いくらでもお金をかけずに楽しむ方法があった(多感な頃によく志茂田景樹の本を立ち読みしていて、店主によく怒られた)。買い与えられるものをこなす能力ではなく、自らお金をかけずに楽しむ方法、こっちの方が今にもずっと役に立っているし、僕は中学生の時に読んだ、松本人志の「遺書」にあった、貧困と想像力の話に強く励まされたのを覚えている。

今ならネットもある、だからいくらでも材料はあるのだ。その材料に触れることができないことが貧困というのはわかる。

それにちょっと特殊だったのはうちは大学受験の時に、予算を親から与えられた。「君の大学受験にかける費用はこれしかない」。その状況がわかることで、自分で大学に受かるためにはどの講座がどのタイミングで必要かを考え、大学に受かることもできた。周りが城南予備校とか早稲田ゼミに行き、お金を垂れ流しているのを見て、羨ましくも思ったし、何より男女が仲良く自習室で勉強しているという話を聞くたびに羨ましさが倍増したけど・・・でもみんなと同じやり方だと2年の途中から予備校に行かないといけないし、時間勝負では勝てないと思ったから、自分にとってはそれが良かったのだけども。

その与えられた環境で、あるものを使って、組み合わせて解決していく。それができることで、環境を変えていく。それが今求められている力なんだと思う。

もう一度言うけど、そりゃ、お金があったほうが可能性が高くなることは否めない。
だけど無いとダメだ、それが学力がない原因だと考えるその発想、思考停止された考え方、それこそが貧困だ。

そして色々な支援などもそうだけど、自分の環境を捉え、考え解決していく力を伸ばすのではなく、ただ教育を無償なり、とても優しい美味しい状態で思考停止な状態にさせた上で与えること、それでは本当に解決しないといけない力はつかないんだと思う。

画像は今更ながらのうそこメーカー