なめらかなボディラインとその敵

最近、哲学が流行っているらしい、確かに答えが明確でない時代なのでより哲学に回帰しようというところであろう。
AI、バイオ、民主主義・・・

哲学の「て」の字もわからない僕だか、昔、今でも週刊文春に連載している「笑う哲学者」土屋賢二さんが好きだった。
身の回りのどうでもいいこと、くだらないことを変な視点で勝手な解釈をしていて、それでとても笑えるものだった。それが哲学の楽しみであるということだとこちらも勝手に解釈していた。

昨日、飲み屋(お酒は飲んでません)でテーマになったのが「ボディライン」。
ボディラインという言葉を男性が女性に使うことで、それは僕(男性)から見たら、女性に線があり、その線がある限り、その女性に触れることはできないと考えると、そのボディラインは僕の心にあって、相手の女性には存在しない。

つまりその女性に触れたいのであれば、そんなラインを考えちゃいけない、その前の女性を受け入れるということが必要になる。それは言い換えれば「あのボディラインいいよなー」という男子の部活的な話は、届かない壁を表している。そんなボディラインってなんだ?ということで盛り上がっていた。哲学ってそんなもんだともっと楽しいんじゃないかなと思う。

「境界線は心にあって、世界にはない」とはドネラ・メドウズの言葉であるが、
「ボディラインは僕の心にあって、世界にはない」と言いたい。

それは例えば目の前の異性に「あなたのタイプは?」と聞かれた際の返答に似てるんじゃないかと思うけど、その話はまた今度。

ユートピアズという漫画に「誰が為にカメがある」という話があるが、本当のこと言えば、そんな会話をしているより、触りたい。

僕はただただ触りたいんだ。
日本橋ヨヲコの「バシズム」にもあったな。