「おっぱい」から考えるアドラーの教え

先日、行きつけの店にて話題になったのが
「どこまでがおっぱいか」
という議論。

乳首(以下頂上)を愛する人は、その周りの「わ(品川区の標語ですね)」に始まり、
山のふもとまでの通称甘食(※)エリアをおっぱいとみなす人がやはり多い。

※甘食=高校時代、あるOBの方が試合終わりに大量の甘食を持ってきました。
試合が終わり喉がカラカラな僕らに甘食、あの水気のない甘食、
食べれるわけないじゃないか!とよく思いました。

food_amasyoku

でも、僕は違うんです。
脇の下からお腹の横、そうやって下って行くと県境を越えた埼玉県(おしり)も、群馬県(太もも)と新潟県(足)全部がおっぱいに見えてくるんです。

で、この差は何かと考えるとおっぱいそのものを愛しているのか、おっぱいがあるカラダを愛しているのか、その差なんではないかと思うわけです。

これはアドラーがいう、もっと大きな共同体という話と一緒で、そこで終わりと思うか、その先を期待する、繋がりがあると思うかの差なんではないかと。

だからそういう意味ではおっぱいは無いということが出来る、僕らが信じて憧れて競い奪い合ったあのおっぱいは無かった。

無いから探そうとする、山の頂上を目指してしまうとそこで達成されてしまうけど、こうやって一生探していれば、一生達成できない。これがアドラーの「今ここを生きる」ということですね。

続いて行く、そう考えると温度だったり、その前の会話だったり、場所だったり、それに寄って形は変わるものだし、たとえ小さかったとしても、明日には大きくなってるかもしれない、つまり変化する生き物だということです。だから大きさや形の今を嘆くのは論外だと言うことですね。

60パーセントの美学、つまり、相手のおっぱいは自分如何でどうにでも変わる、それがアドラー先生の言いたいことです。相手のおっぱいに一喜一憂してる場合ではないと言うことです。

よーくわかりましたか?