世界はみかた

■はじめに
せかいはみかた
世界は見方ひとつで変わる。
世界は味方にも敵にもなる。
0からと思うか1からと思うか
「1から始める」とは言うが、
「0から始める」とは言わない。

いまある事実は既にもう「1」である。
「0から1なんて作らなくていい」
「1」をいっぱい集めて、それをうまく掛け合わせれば、
きっと今以上の強い味方になる。

「1」ってなんだろう。
それは僕らもわからない、
だからそれを見つけに感じに行く。
目、鼻、口、耳、手足・・・体にはいっぱい武器がある。

それも立派な味方だ。
さらに身の回りには
親、じいちゃんばあちゃん、兄弟だって、友達だって知り合いだって
近くの中華屋さんも花屋さんも商店街も図書館も映画館も学校も・・・
僕らにはいっぱい近くに味方がいる。

これらの武器をフルで活用して世界の見方を身につけて行く。
それはきっと未来をかける(描ける/掛ける/書ける/架ける・・・)力となる。

世界「の」ではなく、世界「は」
属すのか、新たに定義付けをしていくのか、
この世は客観なんてなくて、すべて主観だ。
だから誰かのいう正しさ、すなわち0点100点なんて存在しない。

固定化された言葉や概念に囚われず、
あらゆるものを味方にして行く、そのためには自分の弱さを知ることも大切。

いろんな人といろんなことをする。
そうすることで色々な人の世界をも獲得していく。
その獲得した世界は君だけの小さな世界になる。

そんな世界を見つけるための冒険の始まりだ。

 

1)「0」はない

  • さらば0、これまでありがとう

1−1=0、100−100=0、何気なくみんなが使っている「0」。色々なところで「0から1を生む」「0から考えよう」って言う。でも「0」ってなんだろう。例えばお店でみかんを10個売っていた場合、その10個が売れれば10−10=0、でお店からはみかんが0個になってしまう。でもその10個はそれぞれ買ったお客さんのところに行く。そうなるとこの10個はまだあることになるし、たとえそのみかんを食べたとしてもそれは体の中で消化され、それは色々な活動を促すエネルギーとなる。そう考えるとそれは本当に無くなった=0なんだろうか?

それに加えて可能性がないことを「0」ともする。ああこれは無理だ、どうにもならないよ。そんな時頭に「0」が浮かぶのではないだろうか。例えばとても好きな子にこっぴどく振られたとする。その時世界は0に見えるかもしれない。でもその子に末長く丁寧に付き合うことで相手が良さに気づいてくれることもあるだろうし、その時に慰めてくれた友達の良さに気づき、その子と付き合うこともあるだろうし、何が起こるかわからない。

僕らはこの「0」という数字にとらわれ過ぎてきた。すぐに「0=ない」という言葉で片付けてしまう。それは言い訳にもなる。何かできなかったことがあった場合、「なかったからできなかった」といえば、それで済んでしまうような気がするからだ。でも前述の好きな子の例のように、その「0」というのは自分の頭の中で作ってしまった「0」であって、世の中、神様からみた「0」ではない。きっとどこかにある(0はない)という明るく楽しい考え方を持つことで、可能性が広がる。例えば君にお金がなくて勉強ができないという言い訳をしたとしよう。でも今はインターネットを使ってタダで学べることもたくさんあるし、昔から図書館だってある、僕の場合は近所のおじさんにプールをタダで教えてもらっていたのだが、クラスのみんながお金を払ってスイミング教室に通う中、僕と友達はそのおじさんから丁寧なマンツーマン指導を受けて、クラスで1、2を争うレベルまでに成長した。話は脱線するが、そのおじさんに20年ぶりに先日その友達のおばあちゃんのお葬式で会った。その時におじさんに聞いてみた。「あの時の水泳が僕の中で今でも大事に行きています。」「そうか〜、あれは遊びだったんだけどな〜。」

僕の家は良く言うのだが、兄弟も3人いてあまり裕福な家ではなかった。だから子供ながらにあまりお金をかけることはやめようという気持ちが多分にあった。そんな環境というのも相まってか、僕にとってはとてつもない大きな経験であった。おじさんから見た遊び、それが僕らの教育につながる。そんな体験、もし家が裕福だったらできなかったかもしれない。そう考えると無い、足りないという状態はむしろ、「0」ではなくて想定を超えた爆発を生むかもしれない。

よくテレビで話題になる「保育園問題」。僕も実際子どもを保育園にと思った時、実家が近いという理由で断念せざるをえず、嫁はその仕事をやめることになったから、痛いほどわかる。でもこれも保育園に入れなかった=0=無いと勝手に判断し、国に文句を言う問題ではなく、例えば今の空き家問題を利用して、その空き家を利用して自分たちで保育園を作ってしまう、空いた時間を機に新しい資格を取っていつかの仕事に役立てる。少し家賃を下げてでも子供と触れ合う時間を作る・・・そのように不足が生み出す選択肢、そして未来の方が想像をも超えた創造を生むことができるのでは無いかとすら考える。「無い!どうにかして!」と叫び、怒るのではなく、無いならどうしようか、と考えてみる。その心が「0」を生まない心だ。そう考えると先も述べたように「0」というのは心にある概念だ。「0」なんか無いと思ってしまえば、可能性しかない。仕事を退職して「やることがなくなった」と嘆くのか「これだけの時間がある」と期待に胸を踊らせワクワクするか。それが「0」が及ぼす影響だ。

テレビでと言えばよく「貧困」というのが問題になるけど、これも同じ概念だ。確かにお金が無いことは色々制限が出てくるので辛いかもしれない。でもお金がないことで生まれることも多いかもしれない。先にプールの話をしたが、僕の家庭はあまりお金がなく、よくクラスのみんなが色々なものを買ってもらう話を聞くたびに、なぜうちだけ買ってもらえないんだ!とよく怒っていた。でもそれだからこそ、どのように楽しむかを常に考えてきたし、だからこそ得られたものも沢山ある。かつてお笑い芸人の松本人志さんが「貧乏だから想像力を生むことができた」と「遺書」という本でそのように述べていた。別に貧乏を推奨しているわけではなく、考え方の話だ。そして大学受験の時は、クラスメイトが皆揃って大学と同じくらい費用がかかる予備校に通う中、僕は親から年間20万円という予算を渡され、その中で受験をするしか選択肢がなかった。でもそのおかげで何が自分に必要で、何にお金と時間を割くべきかを考え、行動することができた。そもそも論だが、皆と同じお金を払って同じ予備校に行って、同じ授業を受けて、それで差を出す、他人より優れた点を取るって難しく無いですか??もちろん親を説得しやすいというのがあるかもしれないけど・・・と、そんなこんなのことがあり、お金がないことが貧困なのではなくて、無いから何もできないという心、そして知ろうとしないということが貧しくて困る=貧困だと考えるようになった。

国が出す指標などは相対的な貧困であって、絶対的な貧困になってはいけない。だから後で詳しく説明するけどたくさんの差異を作ることであらゆる体験ができる「モバイルスクール」と言う学校を立ち上げることにした。貧困、保育園不足などそのような社会的ワードを客観的にイージーにファッション的に使っては「0」を使っていることと変わらないわけで、どうしたら主観的(昔は自分ごとって言う言葉が流行ったな〜)に捉えるかだ。

仕事でなかなか遊べないのだが、子供と出かける時、よく僕は子供に聞く「これだとうまくいかないんだけどどうしたらいいかな?」、そうすると子供は答える。「パパ、それならこうすればいいんじゃ無い?」その案が例えどうしようもないものだと僕が感じるものでも、僕は子供のその姿勢が好きだ。子供達は諦めていない。だから大人がそのような姿勢を見せることが大切だ。自分の子供の好きな言葉がある。ある日、うちの子供(男子)がおちんちんを大きくしていた。僕は聞いた「なんで大きくなっているの?」「パパ、これはねワクワクしているんだよ」。そうか、詳しいことはよく分からないけど、男の子の体の一番前、フロンティアな部分はTHE男の子である。彼がワクワクするようなこと、彼にディレクションをしてもらって方向性を決める。「0」がないとはこのような状態のことを指している。それは言葉だけの「ポジティブ思考」ではなく、ワクワクする考え方をして、行動を起こす「世界を楽しくする見方」だ。それが「0」のない世界だ。

無いと思うこと、それを「0」とすること、誰かが作った「0」という物差しに自分を当てはめる必要はない。「0」ってよく見ると「○」にも見える。0にしておけば「OK(○)」。これまでその「0」のおかげで色々整理され、スピーディーに物事を進めてきたおかげで、世界が発展してきたことはきっと確かだ。何より統制が撮りやすかった。これまで「0」には本当に働いていただいた。ありがとう。でもその呪縛からそろそろ離れてもいいのではないだろうか?